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映画「何者」~感じた不快と決断主義~

10月20日共同体では決断主義は解決しないを加筆

映画を見て不快でイライラしてしょうがなかった。そのまま小説も読んだが、映画の方が不快感は強い。以下は映画と小説が混ざってしまうかもしれないが、基本的には映画版をもとに書く。

決断主義
作中で隆良は「思想を渡り歩く」を読んでいた。検索してもヒットしなかったので、作者のオリジナルだろうと思う。ゼロ年代文化についてのコラム集らしい。私の妄想ではあるが、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を意識していると感じた。「何者」の作中でも想像力はキーワードになっている。主人公が就職活動2年目で、ゲームのルールに精通しているのは、決断主義で例に挙げられる「野ブタをプロデュース」に酷似している。そして主人公の佐藤は野ブタの亀梨に似ている。仮に偶然の酷似だとしても、「何者」の登場人物は宇野が主張する決断主義にひたすら忠実である。

ゼロ年代の想像力については要約しているサイトがあったので転載
http://d.hatena.ne.jp/tkihrnr/20110430/1304132481

決断主義の定義
「世の中が「正しい価値」や「生きる意味」を示してくれないのは当たり前のこと=「前提」であり、そんな「前提」にいじけて引きこもっていたら生き残れないーーだから「現代の想像力」は生きていくために、まず自分で考え、行動するという態度を選択する。たとえ「間違って」「他人を傷つけても」何らかの立場を選択しなければならないーーそこでは究極的には無根拠であることは折り込み済みで「あえて」特定の価値を選択する、という決断が行われているのだ。」
(同書 第一章3.21P)

就職活動は「意味」や「価値」「成長」というものは示してくれない。内定を貰えるかどうかという結果のみが重要であり、過程には意味がない。隆良以外の4人はそのルールに自覚的である。主人公の拓人は就職活動2年目であり、ルールに精通したプレイヤーだ。そして、過程の誇示(頑張っているアピール)に嫌悪感をもっている。ここで新鮮だったのは過程を誇示する里香も自身の行動に自覚的であることだ。頑張っているアピールが「痛くて」「かっこわるい」こと、そして究極的には意味がないことを自覚している。それでも、「あえて」SNSでアピールし続けることしか残された道はなく、就職活動の拠り所としている。

就職活動に疑問を唱える隆良
隆良は作中、就職について疑問を唱える。曰く
「これから個の時代、企業に属する意味はあるのか」
「原発があんなことになっちゃって、いつまで日本に居られるかわからない」
「大企業の半年の研修で会社が潰れたら、何も出来ないまま社会にでることになる」
「企業に属することには自分は向いていない、やりたくないことに合わせる必要がある」
隆良の疑問は、稚拙で、親の援助のもと生きている大学生の立場からすれば詭弁にすぎないのだが、それでも今後の生き方に関することに疑問を持つのは自然なことだ。しかし、こうした考えは他の4人の心には響かない。主人公は、大きな話にすり替えているだけだと心の中で一蹴する。他の3人も、就職活動を決断した以上、ゲームのルール、前提を疑うことは許されていない。

ゲームの勝者瑞月
瑞月は大手の通信会社にグループ内で1番目に内定を得る。その祝賀会で、未だにゲームのルールに無自覚な、ひきこもり的な考えを振りかざす隆良に対して毒づく。私はこのシーンが非常に不快だった。この段階で瑞月は、一人だけ内定を貰った勝者であり、光太郎に2回フラれたばかりで、母親が精神的に不安定になったという状態だ。そうした不満をその場で一番立場の弱い(ゲームのルールに未だ無自覚な)隆良にぶつけただけではないか。しかし、ゲームの勝者である瑞月の言葉には説得力がある。内定を持っていない弱者である他4人は反論することができない。後日、瑞月は拓人の裏アカウントの存在を知っているだろうことが分かる(アドレスで検索することで裏アカウントは発見できるので、隆良の裏アカウントも見ていることが推察される)。ここで瑞月が毒づいたはじめの言葉を考えたいのだが「隆良くんの考えはたくさんたくさん考えた上で生まれたものならそれでいいけど、そうじゃないならば聞いてほしい」である。つまり、考えの浅い隆良にゲームのルールを私が教えてやるから聞けといっているのだ。隆良は一年休学しているわけだし、裏アカウントでも再三自分の考えを吐露している。稚拙でひきこもり的な考えかもしれないが考えた時間はそれなりにあってそこから生まれた言葉であることは瑞月も了解しているはずだ。しかし、ゲームの勝者である瑞月は、隆良の考えは思慮が足らないのだと断定して話はじめるのだ。今まで空気を読んで求める答えだけを話していた瑞月が、なんと傲慢で不遜な言葉を吐くのであろうか。隆良の考えを認めることは、自分の内定にケチをつけることでもあるので、論破しておきたいという気持ちもあるのだろう。フラれた腹いせ、家庭の混乱への不満、自分の考えの正当化、そのいずれであったとしても隆良のことを思いやる意図は微々たるものだったのではないか。

就活という演劇
映画の最後、登場人物は演者であり、観客の前で今までの話を演技していたことが発覚する。これは、登場人物たちは演者=直接的な就活の体験者ではない、第三者であるということだ。その意味では就職活動の演技をしていた登場人物達とそれを見る私たちは、共に第三者であり、同じレベルの存在であることが突きつけられる。つまり、決断主義は登場人物達だけの問題ではなく、私たちにも共有される問題になったのだ。このとき、裏アカウントをつくって周囲を分析する主人公を傍観するだけの態度は許されず、私たちの問題として考え、決断せざるを得なくなった。この構造は不安定な主人公に同一視を余儀なくされ、非常に不快感に襲われたが、小説版との相違点であり面白いと思った。

共同体では決断主義は解決しない
宇野は決断主義の克服のため「小さな共同体」木更津キャッツアイのような関係を挙げている。「何者」においては、就活対策本部の5人がこれにあたる。共同体の中で、瑞月や光太郎は相手に求められる返答をし、それらしく振舞うことで共同体の維持に努める。この二人に結果的に内定が出たことや、ES、ウェブテストに他のメンバーを利用できていたことが指摘できる。光太郎は拓人と二人でいるときと5人の時では違うふるまいをする。光太郎は、宇野の論に従えば、関係性の変化=書き換え可能なことに気づいて「面白さ」や「生きる意味」を得ることができるはずなのだが、「何者」においては結局解決しなかった。そればかりか、瑞月の隆良への発言であっけなく共同体は崩壊する。瑞月にとっては、内定を取得し、光太郎への復縁も叶わない以上、もはや共同体に属する理由もないということだろう。他との関係性の中にしかキャラを見いだせない以上、一人が抜ければ、以前の関係性ではいられずバランスが崩れることになる。また、書き換え可能な関係である以上、ほかの共同体に移ることも容易い。結局、共同体は木更津キャッツアイのようにユートピア的には働かなかった。危うさと脆さを自覚しつつ維持に努めるものの、あっけなく崩壊するという、絶望的な結末しか提示されなかった。
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「君の名は。」意味深おばあちゃん

祖母のセリフ
A「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神様の呼び名であり、神様の力や。ワシらの作る組紐も、神さまの枝、時間の流れそのものを顕しとる」
B「よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」
C「(前略)何かを体に入れる行いもまた、ムスビという」

瀧が口噛酒(三葉の半分)を飲む(Cの「ムスビ」)

瀧の中に三葉の半分が入る(三葉の幼少からの記憶を辿る、Bのムスビ「時には戻って」「時間」)、三葉半分+瀧1ではバランスが悪いので瀧の半分はいったん押し出される

三葉と瀧が会って名前を書いているように見えるシーンは三葉と瀧の半分との会話と解釈する、黄昏時は人ならざるものが会う=カタハレ時、すれ違ってから振り向いて会うシーンは瀧が半分でおぼろであったと解釈する
(1個体内部での会話と考えるほうがきれいだが、マジックの文字が残るのが説明できないので実際に二人は会っていたとした)

カタワレ時が終わる、瀧は意識が戻るがいつの間にか山頂にいる、向こう側(死)から現実に渡るときに半分(記憶)をささげたので三葉の名前を思い出せない(Bの「途切れ」)

3年前の三葉も徐々に瀧の名前を思い出せなくなる。半分の瀧と会っていたために記憶がおぼろになるとも考えられるし、半分が神に捧げられたために忘れたとも考えられる。

8年後再会する(Bの「またつながり」)

「君の名は。」ストーリーを改変したい

妹は祭りの日に誰かと入れ替わっている説

・口噛酒を写真をつけて売ればよい
売った金で上京すればよいという9歳とは思えない合理性
写真をつければ酒が売れると考えたのは口噛酒が性的であることを認識している
また、性的であると認識しつつ、祭りで平気な顔をしているのはなかなかできることではない

・祖母と糸を作っていた時の反応
祖母は何度も糸にまつわる由来の話を孫に聞かせていた、三葉は昔話の事件の名前まで覚えていた。このとき四葉は事件の名前どころか「名前ついてるの!」と驚いている。姉が何度も聞きなれた話にもかかわらず反応が不自然だ。ましてや写真をつけて酒を売るという発想ができる聡明な四葉が話を覚えていないことは考えにくい。

蛇足ではあるが、祖母も昔夢を見ていたことがあったと発言にあるように家系的に四葉が入れ替わりの能力を保持している可能性は十分にある。祭事という特殊状況での能力発動もありうる。


 私は映画を見ながら、パラレルワールドの話なのかな?と予想していた。RADの曲はタイトル「前前前世」からわかるように転生を匂わせるし、三葉は「来世は東京でイケメンになりたい」と神社で発言している。三葉が「来世」という半ば今の人生をあきらめた発言をするのは不自然だ。三葉は大学で上京したいと思っているわけだし、そもそも話し言葉でいうならば「東京のイケメンになりたい」というだけで十分だ。「来世」とわざわざ足して叫んでいるのが不自然で仕方なかった。(死ぬほど恥ずかしい祭りだったから記憶から消し去りたいという思いがあったとするのが最後まで読めば自然だと思う)そこに彗星の話がニュースで取り上げられるので「なるほど彗星がパラレルワールドを発動させる契機なのだな」と確信していた。瀧は3年前に入れ替わっているにも関わらずスマホや日記で気づかないのは不自然だった。これらの事象はパラレルワールドで説明されると良かったのだが、実際にパラレルワールドを主張するのは難しかった。電車の中で会うシーンは完全に実世界で会っているし、パラレルワールドを行き来するスイッチも世界線が違う表現もなかったように思う。
 予想が当たらなかった負け惜しみではあるのだが、二人は転生する前後の同一人物という話のほうが好きだ。この場合、同一世界で出会うとドッペルゲンガーのようにどちらかが消失してしまいそうだ。そこで、彗星が分かれた瞬間に世界を跨いだり、酒を飲んで、消失した三葉を取り込んで1つの体に統合されて結ばれる話になりそうだ。
 あるいは単純に二人の入れ替わりを丁寧に書いて、彗星の日に再開するという話でも良い。俺は入れかわった日常パートがもっと見たかったのだ。瀧が乗り移った四葉が机を蹴ったり、バスケをするシーンをもっと見たかった。この場合彗星を見る二人がそれぞれ青と赤に見立てられてきゃっきゃウフフとベタに話して終わることになる。
 何にせよ彗星を落として三葉が死んでいるというのは必要だったのかな?と思えてしまう。規模は小さいが多人数を救う映画っぽさを出したかったのか(恋愛過程で世界が救われるという意味では世界系?)、二人が容易に会えないように(スマホがつながらないようにするために)時間をずらした辻褄を合わせたかっただけなのではと邪推してしまう。しかし、時間がズレているのに二人とも気づかないというのは致命的だ。夢での記憶が薄れている、入れ替わりに夢中だったと弁解してみても弱い。入れ替わりの最中、実は気づいていたが表現を省いたというならば、作者の恣意的な隠ぺい工作である。彗星落下を311に見立てるという記事もみたが「シンゴジラ」(こちらは明らかに原発事故を意識しているが、そのレベルで見るならばつまらない解釈だと個人的に思う、岡田の解説を聞いて欲しい)と上映時期が近かったことで同分類したいだけの無理やりの解釈に感じた。仮にそう解釈するならば入れ替わって恋心が芽生えるだけのストーリーにどんな教訓があるのか?事故を忘れるだけならば入れ替えを利用してハッピーエンドになる必要がどこにあるのか?
彗星落下必要なし、日常パート増量必要あり。

「君の名は。」 を見たのでツッコミを入れて自分で解消する

新海誠監督の最新作!一番の見どころは圧倒的に美しい背景!
→背景かくのはアニメーターなので監督の腕ではない

三葉「来世はイケメンに生まれ変わりたい」
→入れ替わり先が理想のイケメンだと確定、付き合うのも濃厚

川の内側が死後の世界ならば二人が出会うのは川の内側ではないか?
→隕石が落ちて死後の世界が拡張した(曖昧になった)説、死後の世界の外側ということで生と死の境界で会ったという説
外で会わないと美しい日の光を描けなかった事情
追記:川の向こうにわたると大切なものを差し出さなければならない(初めは酒を渡した)とすれば、二度目に瀧がわたって酒を飲んだ時は何を差し出したのだろうか。三葉の半分を酒で取り込んだとすれば瀧の半分を差し出したと考えれば素敵ではないか!(多少強引だ)

市議会議員が三葉の指示におとなしく従って避難させたのはおかしい
→父は物語冒頭で「胸をはって歩け」と一喝し、物語中ごろで瀧と入れ替わっていることを見破り説得が一度失敗する
→説得された時には中身が三葉であることを認識しながらも、物語冒頭のよわよわしさはないことを察知して説得される
つまり、物語冒頭から父を説得するシーンまでに三葉の成長があることがわかる
→二人が出会ったシーンで手に書いた告白が成長の契機?

・二人が実際に出会ったシーンで十字に描かれる光
・3年間の時間差はあったものの同じ歩道橋にいたときに描かれる十字の光
・祖母が三葉の中身が違うことを見破って自分も昔同様の夢を見たと語ったときは隣の部屋の畳で二人の間に十字架が描かれていた、明らかに目立つカットなので意図的な描き方に思われる
→祖母は2度も三葉の異変に気づき(入れ替わっていると指摘、夢を見ていると指摘)ストーリーの核に関わってこなかった→謎である

・三葉は瀧に会いたいならば、堀の中の日本酒の場所で待ち構えていればいいのでは?
→日本酒を飲まないと三葉は助からないのでタイムパラドックスが起きてしまう
・ラストカット電車で偶然出会うのは確率悪すぎではないか、もっと良い方法があったのではないか
→記憶が曖昧になってしまうので出会うための重要な手がかりはなかった
→瀧が就職活動をしていたので隕石が落ちてから5年がたっていることがわかる

・「出会えば必ずわかる」といっていた割には5年間出会えなかったのは長くないだろうか
→東京は膨大な人がいて日々の生活に忙しくお互い街を徘徊できなかったため、すれ違うことが5年間なかった

・発電所を爆破して、虚偽の放送で混乱に陥れたことによる罪
→3人とも服役していたと考えれば塀の中では瀧とも会えないので5年間すれ違わなかったことと整合性がとれる
→東京に何年も住んでいた(隕石が落ちて市に住めなくなったため、故郷で暮らすと冒頭で宣言していたにも関わらず上京することになったと考えられる)にも関わらず訛りが抜けなかった。二人も服役していて上京してから日が浅いために訛りがとれていないと考えれば整合性が取れえる
3人とも服役していた可能性が高い

フリー雀荘は既に死んでいる

「フリー雀荘は既に死んでいる」
過激な書き出しになってしまった。
勘違いしないで欲しいのは、フリーが無くなって欲しいとかフリーが全て無くなるという意味ではない。
結論から言えば、フリーを行う店は大幅に縮小し、ある種の情弱ビジネスになってしまうだろうということだ。

マーチャオでの説明に注意書きがあった
「店内で知り合った人同士でのセットはご遠慮ください」
つまり、フリーで打つ人同士でセットをするのはやめろ
セットよりもフリーのほうが儲かるからセットで打つなよと言っているのだ。
ピンフリーだと1時間で卓5000円くらいはとられるが、セットならば1000円程度だし、学生を混ぜれば600円でもいけるだろう。
確かにメンツが揃えばセットで打つほうが効率的だ。(せこいかもしれないが、好きなルールで打てるしメンツを厳選できるしレートも上げれるし良いことずくめである)

「今までだってフリーの人たちで集まってセットを打てたじゃないか」
と皆さんは思っただろう。私がフリー縮小を感じたのは主としてフリーで打つ人の精神、加えてスマホ等情報機器の普及のためである。

フリーのメンツを集めてセットするというのはせこいことだと先ほど述べた。
1ゲーム数百円をケチることだし、メンバーを雇ってメンツを補充している店のことを考えていないし、元々知らない人にセットの誘いをするということである。以上のことはせこいことだと感じるし、恥ずかしいことだと思う人もいるだろう(誘うことも恥ずかしいし、メンツを見れば店の人からは分かることだ)。しかし、実際注意書きがあるということは、「不逞の輩」が跋扈し始めているのだろう。損をしたくない、得をしたい精神の持ち主が増えているのだろう。恥ずかしささえ無視できれば、A雀荘フリーの知り合いでB雀荘に行けば解決する問題で、禁止するルールに意味はないのだ。
情報機器の普及はさらにフリー離れに拍車をかける。ドラ麻雀は現状フリーの代わりを果たせていないが天鳳がオンレートになれば皆が始めるだろう。場代が安くて楽でタバコも気にならないなら最高の環境だ。もっと直接的に、「麻雀集合アプリ」を誰かが開発すれば良い。県を指定すると足りないメンツの数と雀荘が表示され、その場に行って混ぜてもらえば実質フリーなのにセットの代金で打てる(既に集まったメンツの年齢層、ルール設定を表示してもよいし、天鳳の段位を表示して強者同士をつなげる側面を持たせてもよい、有料でメンバーの派遣を行ってもよい)。アプリはツイッターでもmixiでもフェイスブックでもなんでも良い。今はまだ統一ができていないだけで、ある程度人数を集めてしまえば安定的に稼働してしまうだろう。アプリを使っているだけなので、恥ずかしさは払拭されニュートラルにメンツを集める感覚になる。卓を借りているだけなので禁止するのは難しいし、仮に禁止するならば他の雀荘が許可して流行るだけである。また、「麻雀集合アプリ」は単なる出会い系なのでそこまでコーディングが難しいわけもなく(私は全くできないけれど)、レート表示しなければ何の問題もない(場代を気にするのはピンで打つ人なのでデファクトスタンダードでピン固定にして集合してから同意があればレートを決めればよいだけの話である。)問題は組んで打たれたり怖い人と会わないかということだが、そんな人ほとんどいないだろうと楽観的な考えだ。
とにかくメンツ集まらないんだ、誰か作ってくれ頼む。

ここまで進めばフリー雀荘いらないじゃんwとなってしまった。情報機器に疎い団塊の世代を雀荘が取り込めばしばらくは問題なくフリーも続くと思う。しかし、団塊の世代の態度が悪ければますますフリー離れは進んでしまうかもしれない。また、団塊ジュニア世代は問題なくスマホを使いこなすだろう。ピンのフリーは無くなって点5、点3の老人相手の介護フリーが主流になっていくかもしれない。まことディストピアである。
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ミラー

Author:ミラー
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